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2018-05-28

18.5.27 岡太・大瀧神社 講演会

5/27はパピルス館での講演会
『宮司さんに聞く、和紙と神社の歴史』に参加してきました。
P140254.jpg
越前和紙の里FBより
この中に私がいるんですね~。
宮司さんに聞く
宮司さんは話し慣れてらっしゃるようで聞きやすかったです。
P140256.jpg
『そういえばボイスレコーダー買ったんやった』
と思いだし、約1年半ぶりに出番が来ました
終わってから確認に行ったを添えて
お話の内容を書きだします(長文です

紙漉きは今でいう伝統産業、そう遠くない昔までハイテク産業
裏日本 大陸文化(朝鮮半島)今でいう難民が上陸して技術をおろす
川和田漆器、宮崎陶芸、朽飯(くだし)機織(朽飯八幡)
丹南地域(武生盆地)を中心に凝縮している
盆地 海抜が低い 葦原 ふちにしか生活する空間がなかった
川上御前 韓様式(からようしき)芭蕉扇を持っている
川上御前
元々の神の信仰 お社にいらっしゃるのではない
天にまします神、地にいます神
我々が祈りをこめた時に魂が宿る(依代:よりしろ)
神様にお願いして身近なところに来ていただく
お社のしろは依代のしろ
水の神様(水分:みくまり)は紙漉きに重要
紙漉きに足るほど豊富にありますように、質の良い水が出ますように
水害で苦労しないように(アニミズム:自然崇拝)
そのために神様を大事にします
御神威 我々が祈ることで増す(誰も参らなくなると御神威も無くなる)
紙 正倉院(天平年間)記録に残る 現存する物的証拠

大瀧村氏神之由来
719年泰澄大師が紫雲たなびく村を訪ねると
そこには清い川が流れ山頂からは前年に自らが開いた白山が見えた
そこへ白い球が飛来して稚児に姿を変え
再び白玉に変化したのを石櫃に納めて七堂伽藍を建立した
この稚児が大瀧兒大権現であり小白山大明神である

なぜ白山から遠いこちらを霊場にしたか?
布教するのにお経を写す紙があると有利(当時紙が豊富に無かった)
既に延喜式神名帳に記された今立郡岡太神社があった
今立とは新しく作ったという意味(今立った)丹生郡大きかったから分けた
地元の信仰を大切にして鎮守の神としてお迎え(御前立)
白山信仰本地仏として十一面観音
神道主祭神として伊弉諾尊・国常立尊
大瀧兒権現と称して別当大瀧寺を建立 40坊越え 修験道600余名
大瀧兒権現という大きな括りの中に
大瀧寺と岡太神社が並んでほうがん(包含?)されている
中世から明治まで

一番栄えたのはいつ頃か? 紙作りと表裏一体
地域が栄えれば信仰も厚くなる 御神威も増す
鎌倉時代になると産業もシステマティックになる(貨幣) 紙座発達
南北朝での戦乱の後 紙座の頭領 頭角を現す(三田村家)
織田信長一向一揆 一山焼かれる
わずか3ヵ月後、府中三人衆が来て
安堵状(あんどじょう:独占製造販売権)発行
民衆は守られた 優遇する(保護する)ことで上がりを出させる
伽藍も随時復興

復興して安定した時期の絵図版画と現在の絵地図との比較
白山三峰と同じ配置 大汝跡・白山伏拝(御前峰)・別山堂
山城があった 堀切跡くらいしか残っていない

秀吉・徳川の時代 奉書紙(公文書用紙)需要高まる
幕府の庇護を受ける 屋根に葵の御紋ある(福井藩)
祭礼図絵馬(旧和紙組合休憩所にレプリカある)
祭礼図絵馬
御神輿 神迎えの行事(お下り) 女性いない(女人禁制)
絵図の中に神主1人しかいない 赤い袍(ほう)を着ている お坊さん沢山
下宮 右側護摩堂 茅葺の拝殿 湯立神事(平釜3つ現存)
石積みの上に本殿 法華八講  民衆喜んでいる姿(女性・子供)
願主石川 氏子総代の御先祖では?
絵馬奉納天保5年 現在の下宮社殿天保14年 15年が御開帳(式年大祭)
祭催行大瀧寺 差配役紙座頭領三田村家

下宮の社殿は国の重要文化財
建物だけでなく
どういう経緯でどういう人がどういう形で建てたか記録が残る
歴史的に裏付ける貴重な資料
奉加帳(誰が寄進したのか)が石川家の屋根裏から出てきた
江戸後期 優美な社殿建築 複合社殿
本殿の屋根 一間社(いっけんしゃ)流れ造り
幣殿の上に一体構造
幣殿の入口は唐破風、幣殿の屋根は千鳥破風
2つをまんまコピーして上に乗せている
無くてもいい(当初の絵図面には上2層は無かった)
名棟梁と呼ばれた大久保勘左衛門が末代まで残る良い物を作りたい
作りたくても財力が無いとできない
当時の紙座が棟梁の意思を組んでやる度量があった
天保の飢饉の時代にこれだけの社殿を建ちあげることができた
紙屋さんの財力と心意気の最たるもの

上2層無ければ丹波篠山の柏原(かいばら)八幡宮のお社と似ている
三田村家丹波から血縁関係迎え入れ 永平寺にも丹波から大工が行った
柏原八幡宮のお社(関が原の頃)からヒントを得たのでは?

ギミックある
絵図のように拝殿は下(今の石段の辺り)にあった(観音堂として移築)
拝殿から見上げた時に屋根の先端がきれいに揃って重なり合うように見える
今は石段の下から見上げると神門で屋根が隠れてしまう
この辺りがギリ
P140265.jpg
そう言われれば、屋根が下向きのような。
P140273.jpg
先端左右に揃っていない(アシンメトリー)
完成形でない(未完のまま存在する)日本的な考え

屋根の吹き降ろし 成りが小さいので曲線を出すのは瓦ではムリ
桧皮葺きでカーブを作りこむ
桧皮葺き30年が限度 平成になる前吹き替え 補修したがそろそろ限界
前回吹き替え4500万円 現在億近い
そのことになりましたら御協力お願い

基壇は赤茶の凝灰岩(ぎょうかいがん)と青の笏谷石で2層になっている
コントラスト際立つ
角の石は通常2つで繋ぐが大きな石を『状に切り出している
一体ものだから角がずれない 贅沢な造り
P140271.jpg
碁盤の目の石 正方形でなく長方形で見せかけの筋を入れている
(確認し忘れた)
小さいものは地盤沈下でデコボコになる 大きければ影響が少ない

明治維新 体制が幕府から天皇へ移る
幕藩体制の基礎 仏教が補う お寺の門徒になることで戸籍を管理(過去帳)
同じ政治体制を引きずると頭が変わっただけになる
神道と仏教を明確に分ける 神仏分離は政治的な判断
幕府体制からの決別の表れ
大瀧兒権現⇒大瀧兒神社 怒られた(兒は仏教用語だからダメ)⇒大瀧神社
岡太神社そのままだと大瀧神社の摂社末社 小さい扱いになってしまう
上宮にお社があるから下宮は遥拝所に

粟田部の岡太神社
日野川から日野山に囲まれた地域全てと
北は戸口まで大瀧兒権現の氏子区域 粟田部も入る
地元に社格の高いお宮さんを迎えるのがステータス
官幣社・別格官幣社・縣社・郷社・村社
縣社 神名帳に載っていること
当時大瀧兒権現として存在して岡太神社として表に出ていない
明治に変わったときに粟田部にきぐぐんぺいという頭の良い方がいて
岡太神社の名前をいただいていった
明治以前の岡太神社の記述は粟田部地籍には残っていない
それまでは白山神社だったから
こちらは岡本地域にあるから「おかもと」と読む
向こうは岡本地域ではないから「おかふと」

聴講者からの質問① 彫刻は誰が彫ったか?
棟梁の大久保勘左衛門を筆頭にたくさんの人が関わっている
近江からも職人が来ている
1つだけサインがある(確認忘れ) 語り部の方は御存知
獅子の口と目だけ彩色あり(同上)
鯉の滝登り 登った鯉は龍になる(登竜門)
金網で見にくい
P140268.jpg
鯉が天に昇る途中の姿の彫刻を見つけた人は幸せになる
大祭の時に見つけたけど
パイプで見栄えが悪いので投稿しなかったこちらでは?
翼が生えてて『龍というよりドラゴンやな』と思っていたのですが
こちらが龍になる途中の鯉なら
翼じゃなくてヒレ?
GP5070.jpg
聴講者からの質問② 継体天皇が紙漉きの技を… と聞いたことがある
社伝と矛盾する 出生諸説あり

講演が終わってから上宮のご神体について質問してみました。
岡太神社は川上御前
大瀧神社は国常立尊・伊弉諾尊
八照宮は八幡神   だそうです。

毎年の春の例大祭では山神輿1基がお迎えに上がり
川上御前・国常立尊・伊弉諾尊の3体が一緒に御神輿に乗る
秋のお祭は大瀧神社のお祭なので国常立尊・伊弉諾尊の2体のみ
50年に1度の御神忌と33年に1度の式年大祭には
川上さんの御神輿(大神輿)と呼ばれる御神輿も登場(2基)
今年は1300年大祭なので+月尾渡御のお厨子のような神輿も上がった(3基目)
お下りとは別に五皇神社川上御前が里帰りされたお厨子のような神輿もあり(4基目)
ということみたいです。

疑問に思っていたことが大分解消しました
講演会に参加できてよかったです


続く、、、

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genre : 地域情報

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