2017-02-21
17.2.18 向原寺
2/18はキトラ古墳の特別公開を申し込んだので
時間まで明日香方面を回りました。
6:12の
乗るために早起きしたのですが
JR小動物との接触事故で遅延してて
6:01発の電車が10分遅れで6:11に到着とのアナウンスが。
『6:12のも遅れるのかな?』って思ったのですが
こういう時に無人駅は不便なんですよね。
聞く人がいない。
スマホで調べてみましたが
15分以上の遅れじゃないとお知らせされないらしい。
『もれなく遅れてるんだろうな』との予想で
6:11の
に乗り込んだのですが
姫路まで行くはずなのに米原止まりに変更
乗り換えての京都入りとなりました。
新疋田6:01(6:11)→6:44(6:54)米原7:03→7:57京都
近鉄に乗り換えて京都8:06→9:18橿原神宮前
(冬の関西1デイパスでは筒井駅までしか行けないので乗越し¥350)
この日は
出るのが遅くなってコンビニ
寄れなくて
乗り継ぎも時間余裕なくて朝食抜きになっちゃったので
移動中にスマホで調べて
腹ごしらえでモーニングやってるカフェに行くことにしました。
改札で乗継ぎ料払う時に「どちらに行かれますか?」って聞かれたので
『なんかマズかったんかな?』って思ったら
「西口から出たほうがいい」とか
「東口に戻るときは地下通路を通って」とか
めっちゃ親切に教えてくれました
でもね、そのカフェなかったの
潰れたんかな?
結局ミスド

この日はバス移動も考えたのですが
キトラ古墳から飛鳥駅へのバスの時間が不便だったので
雨降ってなかったし、レンタサイクル
にしました。
東口にある明日香レンタサイクル ¥1,000
返却は飛鳥駅なので乗り捨て料¥200
久々に自転車運転しましたが、こんなに重かったっけ?
ものの5分でギブアップ
引っ張って歩いてました(下り坂は乗ったよ)
電動アシスト自転車にすればよかった
まずは豊浦地区へ。
行き過ぎた。手前の
右折だ。

向原寺

こちらは去年だったか
明日香方面のガイド付きツアーの行程に入っていて
気になってたんですよね~。

日本書紀によると欽明13年(552)百済の聖明王から金銅の釈迦仏や経典が献上された。
蘇我稲目(そがのいなめ)はその仏像をたまわり向原の家をもって寺として安置したとある。
しかし、その後悪疫が流行し、物部氏・中臣氏らがこれをもって国神のたたりだと奏したため
仏像を難波の堀江に流し捨て、寺は焼きはらわれたといわれる。
後、敏達10年(581)再建され桜井寺となり百済から帰朝した善信尼が住み尼寺となった。
豊浦宮で即位した推古天皇は推古11年(603)豊浦宮地と桜井寺地とを交換され
旧宮跡に桜井寺を移し豊浦寺といい、寺地に移った宮を小墾田宮と称したといわれる。
豊浦寺は由緒からいえば日本最初の寺であり、舒明朝には塔婆が建立され
持統天皇のときには、飛鳥五大寺の一つに列せられた。
現在は江戸時代に建立された向原寺(真宗本派本願寺派)がある。
日本で最初のお寺だって~

本堂閉まってます

ピンポンして拝観できないかお伺いしたところ
でした
拝観料¥200
私は突然伺ってしまいましたが、お留守のこともあるので
連絡したほうが確実です。
奥様が案内してくださいました。
まずは豊浦宮(とゆらのみや)の遺構を拝見。
通常は調査の後埋め戻されるのですが
ご住職が以前市役所の文化財関係の仕事をされてたつてで
一部見学できるように残されたそうです。
屋根がついていて、天候が悪い時はビニールシートで覆うようです。

豊浦寺跡の礎石建物の下層から
大型掘立柱建物の柱穴と周囲の石敷きが見つかり
この地に豊浦宮があったことは伝承だったが
遺構が見つかったことで裏付けされたとか。
この地域一帯が遺構なのですが
住宅地なのでなかなか掘り起こすわけにいかず
水道工事等の際に行われるそうです。
門前や境内に多くの礎石がみられ、寺跡であることを裏づけている。
昭和32年(1957)・昭和45年(1970)の発掘調査でも塔・金堂・講堂などが検出され
平成5年(1993)には金堂が南北15m、東西17mの規模であることが判明した。
また南方では広場状に10m近くの石敷遺構が確認されているが
全容の解明は今後に残されている。
講堂と見られる場所から出土した文様石

それから本堂内へ。
全日本愛瓢会発祥の地だそうで(瓢箪の発祥の地ではない)
地域の方が作られたそうです。

御本尊は阿弥陀如来ですが
今回の目的はこちらの金銅観音菩薩立像
江戸時代に近くの難波の堀江(難波池)で頭部(飛鳥時代作)が発見され
体部と光背と厨子を補作されたそうです。
昭和49年(1974年)に厨子ごと盗難にあい
平成22年(2010年)に会員制のオークションに出品されていたものを大学院生が見つけ
向原寺さんが買い戻したという数奇な運命をたどった仏様です。
厨子は行方不明のままで、現在はケースで保管されています。
(
撮影OKでした)

想像してたより小さい仏様でした。 40cmくらい。
優しい微笑み。
めっちゃいいお顔立ちやわ~
宝冠?にうっすら阿弥陀如来の化仏が彫られています。
これでこの仏様が観音菩薩だとがわかるそうです。

こちらは展示されてたパネル

耳の辺りの金がよく残ってます。
大きい耳なのか?
聖闘士星矢系なのか?

遺構のパネル
右半分が先ほど拝見した辺りで
左半分が埋め戻して現在庫裏になっている部分だそうです。

この辺りは伎楽(ぎがく)伝来の地でもあるそうで
2010年に向原寺で上演された時の写真も展示されてました。
聖徳太子が日本初の伎楽教習所を築いたといわれているそうです。
日本での始まりは何でもこの辺りって思っとけば
間違いないでしょう
韓国(当時で言う百済)から来ましたよ~て感じのお面と衣装

絵巻も見せていただきました。
後で確認したところ奈良善光講というものみたいです。

お話は右下から始まり
百済の聖明王から頂いた金銅の仏像を蘇我稲目が安置して
その後疫病が流行り
仏像を祀ったのが原因だと難波の堀江に捨てられて
本田善光が池の前に来ると沈んでいた仏像が姿を現し
善光こそ百済の聖明王の生まれ変わりであると告げたので
善光はこの仏像を背負い信濃にもどり自宅に祀ったと。
これ、善光寺で聞いたお話や~
ブレちゃいましたが蘇我稲目が仏像を安置した場面

こちらは浄土真宗本願寺派ですが
聖徳太子御遺跡第十二番と元善光寺難波池の御朱印がいただけます。
両方お願いしたら
「墨書きは一緒だから」と1枚に2つの印を押してくださいました

仏像も時代背景も興味深いお寺さんでした
再訪したいですね
続く、、、
時間まで明日香方面を回りました。
6:12の

JR小動物との接触事故で遅延してて
6:01発の電車が10分遅れで6:11に到着とのアナウンスが。
『6:12のも遅れるのかな?』って思ったのですが
こういう時に無人駅は不便なんですよね。
聞く人がいない。
スマホで調べてみましたが
15分以上の遅れじゃないとお知らせされないらしい。
『もれなく遅れてるんだろうな』との予想で
6:11の

姫路まで行くはずなのに米原止まりに変更

乗り換えての京都入りとなりました。
新疋田6:01(6:11)→6:44(6:54)米原7:03→7:57京都
近鉄に乗り換えて京都8:06→9:18橿原神宮前
(冬の関西1デイパスでは筒井駅までしか行けないので乗越し¥350)
この日は


乗り継ぎも時間余裕なくて朝食抜きになっちゃったので
移動中にスマホで調べて
腹ごしらえでモーニングやってるカフェに行くことにしました。
改札で乗継ぎ料払う時に「どちらに行かれますか?」って聞かれたので
『なんかマズかったんかな?』って思ったら
「西口から出たほうがいい」とか
「東口に戻るときは地下通路を通って」とか
めっちゃ親切に教えてくれました

でもね、そのカフェなかったの

潰れたんかな?
結局ミスド


この日はバス移動も考えたのですが
キトラ古墳から飛鳥駅へのバスの時間が不便だったので
雨降ってなかったし、レンタサイクル

東口にある明日香レンタサイクル ¥1,000
返却は飛鳥駅なので乗り捨て料¥200
久々に自転車運転しましたが、こんなに重かったっけ?
ものの5分でギブアップ

引っ張って歩いてました(下り坂は乗ったよ)
電動アシスト自転車にすればよかった

まずは豊浦地区へ。
行き過ぎた。手前の


向原寺

こちらは去年だったか
明日香方面のガイド付きツアーの行程に入っていて
気になってたんですよね~。

日本書紀によると欽明13年(552)百済の聖明王から金銅の釈迦仏や経典が献上された。
蘇我稲目(そがのいなめ)はその仏像をたまわり向原の家をもって寺として安置したとある。
しかし、その後悪疫が流行し、物部氏・中臣氏らがこれをもって国神のたたりだと奏したため
仏像を難波の堀江に流し捨て、寺は焼きはらわれたといわれる。
後、敏達10年(581)再建され桜井寺となり百済から帰朝した善信尼が住み尼寺となった。
豊浦宮で即位した推古天皇は推古11年(603)豊浦宮地と桜井寺地とを交換され
旧宮跡に桜井寺を移し豊浦寺といい、寺地に移った宮を小墾田宮と称したといわれる。
豊浦寺は由緒からいえば日本最初の寺であり、舒明朝には塔婆が建立され
持統天皇のときには、飛鳥五大寺の一つに列せられた。
現在は江戸時代に建立された向原寺(真宗本派本願寺派)がある。
日本で最初のお寺だって~


本堂閉まってます


ピンポンして拝観できないかお伺いしたところ


拝観料¥200
私は突然伺ってしまいましたが、お留守のこともあるので

奥様が案内してくださいました。
まずは豊浦宮(とゆらのみや)の遺構を拝見。
通常は調査の後埋め戻されるのですが
ご住職が以前市役所の文化財関係の仕事をされてたつてで
一部見学できるように残されたそうです。
屋根がついていて、天候が悪い時はビニールシートで覆うようです。

豊浦寺跡の礎石建物の下層から
大型掘立柱建物の柱穴と周囲の石敷きが見つかり
この地に豊浦宮があったことは伝承だったが
遺構が見つかったことで裏付けされたとか。
この地域一帯が遺構なのですが
住宅地なのでなかなか掘り起こすわけにいかず
水道工事等の際に行われるそうです。
門前や境内に多くの礎石がみられ、寺跡であることを裏づけている。
昭和32年(1957)・昭和45年(1970)の発掘調査でも塔・金堂・講堂などが検出され
平成5年(1993)には金堂が南北15m、東西17mの規模であることが判明した。
また南方では広場状に10m近くの石敷遺構が確認されているが
全容の解明は今後に残されている。
講堂と見られる場所から出土した文様石

それから本堂内へ。
全日本愛瓢会発祥の地だそうで(瓢箪の発祥の地ではない)
地域の方が作られたそうです。

御本尊は阿弥陀如来ですが
今回の目的はこちらの金銅観音菩薩立像
江戸時代に近くの難波の堀江(難波池)で頭部(飛鳥時代作)が発見され
体部と光背と厨子を補作されたそうです。
昭和49年(1974年)に厨子ごと盗難にあい
平成22年(2010年)に会員制のオークションに出品されていたものを大学院生が見つけ
向原寺さんが買い戻したという数奇な運命をたどった仏様です。
厨子は行方不明のままで、現在はケースで保管されています。
(


想像してたより小さい仏様でした。 40cmくらい。
優しい微笑み。
めっちゃいいお顔立ちやわ~

宝冠?にうっすら阿弥陀如来の化仏が彫られています。
これでこの仏様が観音菩薩だとがわかるそうです。

こちらは展示されてたパネル


耳の辺りの金がよく残ってます。
大きい耳なのか?
聖闘士星矢系なのか?

遺構のパネル

右半分が先ほど拝見した辺りで
左半分が埋め戻して現在庫裏になっている部分だそうです。

この辺りは伎楽(ぎがく)伝来の地でもあるそうで
2010年に向原寺で上演された時の写真も展示されてました。
聖徳太子が日本初の伎楽教習所を築いたといわれているそうです。
日本での始まりは何でもこの辺りって思っとけば
間違いないでしょう

韓国(当時で言う百済)から来ましたよ~て感じのお面と衣装

絵巻も見せていただきました。
後で確認したところ奈良善光講というものみたいです。

お話は右下から始まり
百済の聖明王から頂いた金銅の仏像を蘇我稲目が安置して
その後疫病が流行り
仏像を祀ったのが原因だと難波の堀江に捨てられて
本田善光が池の前に来ると沈んでいた仏像が姿を現し
善光こそ百済の聖明王の生まれ変わりであると告げたので
善光はこの仏像を背負い信濃にもどり自宅に祀ったと。
これ、善光寺で聞いたお話や~

ブレちゃいましたが蘇我稲目が仏像を安置した場面


こちらは浄土真宗本願寺派ですが
聖徳太子御遺跡第十二番と元善光寺難波池の御朱印がいただけます。
両方お願いしたら
「墨書きは一緒だから」と1枚に2つの印を押してくださいました


仏像も時代背景も興味深いお寺さんでした

再訪したいですね

続く、、、
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